30分前行動
「この私、~に、~に一票をぜひ、ぜひ宜しくお願い致します!!」
改札を抜けると、多くの警官の方々が目を光らせている。明日は衆議院議員解散総選挙だ。きっと大物の政治家さんが街頭演説をしているのだろう。
喧騒をかき分け、僕は恵比寿の北の方角広尾へと向かった。そこには僕の社長が待っている。前職で転職を決めたときに、僕を拾ってくれた恩人である。僕よりも1つ年下の敏腕社長だ。とても美人でたくましい性格の持ち主。その社長を一目見てほれ込んで、今の会社に入社を決意した。
ざっくばらんな飲み会と言っても相手は僕の雇い主である。失礼のないよう、まず会場には30分前に到着しておく。
今、会社はかなりごたついている。売上は悪くないのだが、肝 かなか新しい従業員は来ない。少しでも条件が良い同業他社へ行ってしまうのだ。人が集まらなすぎて店を何店舗か閉じてしまう事態も可能性としてある。
「お待たせー!やまださん、ごめんね待たせちゃって」
「社長、お疲れ様です。いえ、全然」
屈託のない笑顔。こんな美人で独身というのだから驚きだ。世の独身男性はとてももったいないことをしている。
「やまださんビールが好きだったよね?」
「はい、社長は?」
「わたしもビール飲もうっと!すみませーん!」
髪をかき分けながらメニューを眺める社長。
「はい、ご注文は何になさいますか?」
「うんとね、ビール2つと…いつものあれ、持ってきてくれる?」
「かしこまりました」
社長は慣れた言い方で若い女性従業員に話した。店員は個室からはけた。
政治の話は真面目にしないこと
「社長、ここは行きつけですか?」
「うん、しょっちゅう来てるよ。ここの串、美味しいのよ」
「そうなんですね」
「そういえばさ、さっき恵比寿めっちゃ人いたじゃん?」
「はい、警察官がたくさんいました」
「石破総理らしいよ、来てるの」
「そうなんですね」
だからあんなに厳戒態勢だったのかと、僕は納得した。
「やまださんは明日の選挙、どこに入れるの?」
目を光らせた社長が僕を見つめる。政治とプロ野球の話は慎重にするよう、前職の営業時代に教わっている。
「妻と一緒の党にします」
「え〜それでいいの!?」
「はい、僕は妻党の支持者です」
「なにそれ〜、おっかしい!」
社長は腹を抱えて笑っている。政治の話は真面目にせずに、こんな砕けた感じで誤魔化すのが僕の中の最適解だ。
「お待たせしました。ビールおふたつと…」
女性従業員が、大きな皿に焼く前の串盛りを見せてきた。
「どの串になさいますか?」
「うわー美味しそう!うんとねぇ…」
社長が手を顎に当て考えている。
「ブロッコリーチーズとモッツァレラトマトと、レタスと、あとね…」
社長は痩せているのによく食べる。これが彼女の原動力なのだろう。
「…以上でお願いします!」
「かしこまりました」
社長は店員にほとんど敬語を使っていないが、失礼を感じないところが彼女の魅力なのだ。
覚悟を見せる
「さてやまださん。ごめんね色々迷惑をかけて」
僕が人手不足の店舗にしょっちゅう駆り出され、なかなか定まらない人事制度に関して詫びているのだ。
「いえ、僕は楽しければなんでも」
「ほんと?無理してない?」
「いえ、無理してません。社長とこうしてご飯食べられるだけでも幸せです」
「本当、営業マンなんだから…。じゃ、乾杯」
2つのビールグラスがカチンとなる。僕も社長も飲兵衛だ。一気にビールをのどでゴクゴク飲み干す。
「ぷはぁ!美味しい」
「仕事後のビールは格別ですね」
「本当!」
ほどなくして、先ほどの串盛りも到着。僕たちは舌鼓しながら2杯目のビールを進める。
「さて、やまださん」
「はい」
彼女の目が光った。表情から笑顔が消える。真面目な話をする前触れだ。
「これから会社も色々新陳代謝が行われると思うの」
「はい」
僕も姿勢を正した。
「これから色々激動になると思うわ。今までのやり方とまったく違う方法も出てくるかもしれない」
「はい」
「業界は転換期に入っているわ。今までのものを壊して、新しいものを取り入れる準備にかかる」
僕は頷いた。
「そうしないと、業界として生き残っていけません」
「そうなの。だから、もし何があってもついてこれる?」
社長は僕に覚悟を尋ねている。僕は社長に一目惚れして入社してから、覚悟は変わっていない。
「大丈夫です。僕は社長についていきます」
「ありがとう。そういってくれて嬉しい。…日本酒頼んじゃおっか!」
「喜んで」
「居酒屋の店員じゃないんだから!笑」
社長も色々日々苦悩しているのだろう。僕は社長の負担を少しでも軽くしたい。この会社が泥舟になるか、豪華客船になるか、社長や僕たちがそれを決めるのだ。今後どのような結末になるか、最後まで見届けたい。社長の顔を見て、僕は強く思った。
続く
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